
した。
母子教室、幼稚部は仕方ないとしても、小学部は寄宿に入れたかったけれど本人が承知しません。四年生になって初めて本人から、「お母さんが可哀想だから僕、寄宿舎にはいるよ」と言って、自分から進んで寄宿舎に入ったので、ようやく肩の荷が軽くなった感じてした。通学していたときのことを思い返すと、さまざまなことがありました。
五歳のときのことでした。学校からの帰り、長野市の中心街でバスの乗り継ぎをするのに少し歩きました。ところが、信号のところで子供が見えなくなってしまいました。私が暫く探したが見つからないため学校、警察の人たちまで出て大騒ぎとなりました。
家に連絡して主人がバス停まで行くと、一人でバスから降りてきて、「お母さんは後から来るよ」と言ったそうです。大人の間に入って無賃乗車をして帰ったのです。
「五歳の障害児が一人で一時間半、バスを乗り継いで帰る」と新聞にまで書かれました。
また、東京の日本ろう学校の夏期講習会に参加したこともよい思い出となっております。
子供の特色を引き出す教育と思いやりの心を教えてくださった鳥居先生は、忘れ難い恩師で今も文通をしております。
その後も学校生活で話題になるようなことが多く、当時の先生方とお会いすると、今でもいろいろなことを聞かされます。
高等部を無事、卒業し、「おじいさん、おばあさん、お父さん、お母さん、ありがとう。心配かけてすみません」と言ったとき、「あーよかった」と泣けました。
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